加藤 隆
福音書=四つの物語 講談社選書メチエ (304)
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定価 : ¥ 1,680
販売元 : 講談社
発売日 : 2004-07-10 |
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カトリックの護教論の出る幕にあらず |
特にカトリック系の学者の多くは、十二使徒の一人マタイの威厳を擁護することに必死で、その名を冠した福音書が、使徒でもないマルコの手になる福音書に依拠しているなどという通説は、どうにも許容し難いものらしく、頑なに拒否してきました。いってみれば20世紀になるまで地動説を認めようとしなかった頑なさと共通していると言えましょうか(爆)。そもそもマタイ福音書が使徒マタイによって書かれたということ自体、学説上ほとんど否定されているので、そんな護教論自体も無意味に近いと言えますが・・・(爆)。
マタイ(及びルカ)がマルコに依存しているのか、それともその逆なのかは、小難しい研究書など紐解かずとも、いわゆる対観表で3つの福音書の並行箇所を見ていけば、素人でも両福音書記者がマルコを下敷にしていることが一目瞭然に分かります。両者がどんな動機でいろんな加筆修正を加えたのかまで自ずと見えてきます。
というより、そんなことを律儀に指摘するのも馬鹿馬鹿しいと思うのは、もっと重要なこととして、誠実な学問的研究の成果と、護教論の立場から、初めに結論ありきで、理論の辻褄あわせしたものとを、安易に対比したりなどすべきでないということ。それでは真面目な研究者達があまりに不憫というものです(爆)。
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二資料説はもはや自明の前提ではありえない。 |
二十世紀の新約聖書学においては、ニ資料説と呼ばれる学説が圧倒的な主流を占め、事実上、議論の余地の無い大前提として扱われてきました。福音書の比較検討を主題にした加藤氏の本書も、二資料説を前提とした論であり、二資料説そのものが崩れれば、本書の議論の大部分は瓦解します。
二資料説は、マタイ福音書とルカ福音書は、マルコ福音書およびQと呼ばれる仮説上の資料をもとにして書かれたとする主張です。
しかし、その主張は、Qが実際には発見されていないこと、古代教会教父たちの一致した伝承にまったく反することを含めて、数多くの難点を抱えており、この説に反対する学者も、William.R.Farmerや、Bernard Orchardをはじめとして、少数ながら存在してきました。しかしこのことは、特に日本の読書界においては、残念ながらほとんど知られていません。
David Alan Blackは、アレキサンドリアのクレメンスなどの古代教父の伝承の正確な再読を通じて、Bernard Orchardのテーゼを発展させ、マルコ福音書はルカ福音書の正統性を教会共同体に示すためにペトロによって行われた講話の記録であるという説をWhy Four Gospels?(Kregel Publications)においてすでに打ち出していますが、ファーマーの弟子たちの研究グループは、福音書テクストそのものの徹底した編集史的検討によって、マタイ福音書に基づくルカやマルコの作業を再構成し、Q仮説を不要とする論を見事に組み立ててみせた画期的な著作を出版しました。Allan J.McNicoll,Beyond the Q ImpasseおよびOne Gospel from Two(Trinity Press)参照。
ファーマーたちのグループの仕事は、本書のようなQ仮説に依存した二十世紀の批判的福音書研究の多くに対して決定的な疑問を提起するものです。
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説得力に欠ける |
共観福音書とヨハネ福音書の比較ということで、購入し、数日で読了した。もっと論理的に考えてから活字にすべきだったと思う。完全な駄作である。若手の学者と思っていたが、だらだらとあぁでもない、こうでもないと述べているだけ。図があちこちに散りばめられているが、これも著者の頭で練ってから作るべきだった。もっと勉強してから作品にすべきだった。これは出版社にも言えること。
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『カイエ・ソバージュ』のようなシリーズ化を! |
加藤先生にとって講談社選書メチエは『「新約聖書」の誕生』に次ぐ二冊目。中沢新一先生の『カイエ・ソバージュ』のようにシリーズ化されることを望みたい。非常に深い本なので、ひとつだけに絞ってレビューする。それはマルコについて。加藤先生の専門はルカだが、マルコに最も力が入っている。
日本の新約聖書学のマルコ研究というと、田川建三さんの影響からか、十二使徒に対するアンチテーゼという反権力志向で書かれているとか、女性など社会的弱者に対する視線がマタイと比べて優しいみたいな、やや時代がかった主張がなされることが多いと思うのだが、『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(1999、大修館書店)で「マルコ福音書の成立は、ギリシア語の読み書きのできる者が、そうでない者に対して権威をもつという構造を生み出しと考えるべきである」(p.267)と主張した加藤先生は、こうしたマルコは貧者に優しい視線を送っているみたいな主張に対して冷や水を浴びせかける。
田川さんは「真にイエスの家族であるのは、イエスを取り囲んでその話に夢中に聞き入っている群集である」として「オクロス=群集」を賞賛するが、加藤さんは「『オクロスは有象無象の集まり』といったニュアンスがあり」(p.119)、五千人の供食(マルコ6.30-43)で群集に与えられるのは食料だけであり、「イエスたちの最低限の事情も無視して、群衆がイエスのところに集まる」が「食料のレベルが満たされるならば、人びとは満足する」レベルであり、「群集への教えについて何も記されていない」ことは「彼らは神の言葉と直接に関係のない状態にとどまっていることを意味しているのかもしれない」(pp.118-120)とまで言及する。痛快。
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暴論も4冊目となると、さすがに看過できない |
新約聖書というキリスト教の正典にイエスの生涯を描く「福音書」が4つもあり、それが互いに時に調和不能なまでに異なるという本書のテーマは、その成立と「新約」正典化の過程で4書のいずれも排除できなかった点とで、「新約」を読む上で無視できない極めて重要な問題であり、その解説書は問題の性質上多くの異論が出るにしても本来歓迎されるべきものである。
もっともこれは非常に大きな問題なので、その「成立」のみを記述すること、そしてとりわけ異色なヨハネ文書に深入りしないことも現状では許されるかもしれない。しかしこの著者の一般向けの著作(単行本3冊と共著書1冊)を読んできた私には、本書は絶対にお薦めできないものである。
著者の論の基本は中では最古の作である「マルコ福音書」を、ヘレニスト(ギリシャ語を母語とする)キリスト教徒のいわゆる使徒の流れのヘブライスト教会との「争い」から生じたものだとする見解である。著者によればマルコ伝の著者はヘレニスト、ギリシャ語しか解さない人物だという。ただ、著者はこの論に固執して詭弁とも思える論をも厭わない。一例だけ。別著で展開し本書でも繰り返していることだが、有名なマルコ伝のギリシャ語が稚拙であるという事実を「文の稚拙はギリシャ語が母語であることの否定にならぬ」と言い切る。でもこれはマルコの文を分析し、そこにセミティズム(ヘブライ語系統の言語の影響)を見出してきた過去の多くの研究の無視にしか思えぬ。制約上書けぬが著者は至る所でこうした論理以前の暴論を繰り返す。そうではないと言われるなら、そろそろ著者の考えるマルコ福音書の成立時期を明記して頂きたいものである。
基礎がこうだから、肝心な4福音書の違いの解説も問題だらけ。更にこの著者にとっては新たな論として注目すべきは第2章での「物語」と「論文」の差異の考察だが、これもパウロの存在を無視する著者の言い訳としても全く未熟である。